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吉川八幡神社(吉川地区)
放生会(ほうじょうえ) 9月15日
捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。
秋祭り 10月15日頃
祭祀、御神楽、湯立神事、直会湯立神事:釜で湯を煮たぎらせて、巫女によりその湯で参拝者を清め、豊作と健康、地域の安全を祈る日本の伝統行事。
直会(なおらい):神事が終わった後の打ち上げのようなもので、神の召し上がったものを頂くことにより神のご加護を期待する。
新嘗祭(にいなめさい) 12月4日
古くから天皇がその年に収穫された新穀や新酒を天地の神に供え農作物の恵みに感謝し、自らも食す儀式であった。現在は勤労感謝の日として祝日になっている。本来宮中だけで行われていた儀式ではなく一般民衆の間でも新穀を神に供えそれを食して収穫を祝う習慣があった。
考きゅう寺(吉川地区)
「花祭り」甘茶ふるまい 5月8日
旧暦4月8日 お釈迦様の誕生日を祝って、灌仏会(かんぶつえ)花祭りが行われる。ツツジ。蓮華(れんげ)で飾り付けられた小さなお堂「花御堂」内に桶を置きその中に右手を上に、左手を下に、指さしたお釈迦様の像を安置し、お参りした人はお釈迦様の像に甘茶をかける。これはお釈迦様がお生まれになった時、龍が天から香水を降らせ、お釈迦様を洗い清めたという説に基づいたものだそうである。花祭りは、別名「仏生会」「浴仏会」ともいう。
甘茶を貰って帰り、その甘茶で習字をすれば上達すると言われている。
『宮中献上「亥子餅」の伝承』 (木代、切畑地区)
応神天皇が亥(イノシシ)によって、難を免れたとの故事により、応神天皇の御宇より毎年十月亥の日に宮中へ献上したと伝えられる。その昔は宮中の儀式として健康を祝って行われていた。その儀式に旧東能勢(現豊能町)の木代村、切畑村の人たちが(欽名天皇の頃からは、定められた十三株の家の人たちが)この亥子餅を献上してきた。献上には烏帽子、白装束、白足袋、草履履きの人たちが京に向かった。
亥子餅は、蒸した餅米とゆでた小豆を合わせてついた餅を折り箱に詰め、その上にこし餡と栗の実を並べ、笹の葉を重ねる。餅をイノシシの肉、餡は皮、栗は骨、2枚の笹の葉は「牙」に見立てているという。
その後一時的に中断のときもあったが、明治2年まで約1600年間にわたり宮中への献上が続けられた。東京遷都以降、毎年の献上は行われていない。
近年、茶道裏千家の計らいで亥子株の西浦三義氏が平成7年京都御所に平成9年皇居に献上した。(資料源郷土史家 栩野勝也氏、上山秀雄氏解説 )