高山地区


高山右近生誕地の碑

小字殿方(とのがた)にある。高山氏が居住していた所と云われている。現在自然石の石碑が木立の中に建っている。


マリアの墓 

墓碑は4基からなる。うち一基が離れた位置にある。江戸時代中期の元文、延亭、寛延(1736  51)の年号が刻まれている。「マリア」の所伝は明らかではないが、ルイス・フロイスの「日本史」 によれば、高山右近の母の教名はマリアであった。そのマリアは晩年、高山の小堂で聖女のように過ごしたと伝えられる。


高札場 

禁令や法令などを板札に墨書し庶民に通知するための掲示板。

禁令の掲示は奈良時代から見られたが、室町時代には徳政令、撰銭令などの札が立てられた。江戸時代に全盛を迎えた。幕府の公儀法度の高札は幕府領のみならず私領でも掲げられた。慶応三年(1867)のキリシタン禁令の高札が現存している。


御旅所道標

お旅所とは、祭りの時は神輿に神の御霊を迎える場所。ここには、17世紀半ばのものと云われる灯篭がある。


八幡神社と観音堂

 高山の八幡神社裏に観音堂が建てられ、中に薬師瑠璃光如来(薬師如来)十一面観音立像が安置されている。十一面観音立像は平安時代の作と伝えられる。薬師如来は1869年の神仏分離令に伴って、住吉神社から光明寺をへて現在の地に鎮座したものである。


住吉神社

地域の氏神。創建の時期は不明。1869年の神仏分離令により、ご神体の薬師瑠璃光如来は光明寺に預けられ、さらに1960年頃、八幡神社裏の観音堂に遷され安置された。神仏分離の際に、住吉大社より三筒の大神を招聘し、現在の社号「住吉神社」に名を改めた。この住吉神は五穀豊穣を祈る農耕神として招聘されたと伝えられる。


大川神社

向山城の山頂には、昭和初期までは大川明神の祠があった。祠の前には土俵も作られ、大正時代その土俵で相撲大会が開かれていた。


光明寺

浄土真宗西本願寺派。紫雲山光明寺と号す。檀家数26軒。宝亀8年(777年)光仁天皇の子開成皇子が、勝尾寺の奥の院として創建したと伝えられる。貞永元年(1232)親鸞上人が逗留。その際に住職乗意が、弟子となり光明寺の名を受け真言宗を改め、浄土真宗に帰依した。

 


西方寺

浄土真宗東本願寺派。七宝山西方寺と号す。応永20年(1413)に高山太夫正澄が浄土真宗に帰依し俗道 場を開いたのが始まり。


高山城址、向山城址

 15世紀半ば高山入道が長禄年間(1457~1460)浄土寺方の代官として登場。在地支配を形成して行く中で高山城、向山城が築かれた。両城とも小規模な構造。高山城の裾野には、銅の鉱脈(親弦)が走っていたとの伝えがある。